1922年のワシントン海軍軍縮条約によって、日本の補助艦艇はある方向性を持たされることを運命づけられた。それは重雷装と高速力である。 この軍縮によって主力艦の保有ton数を6割に設定された大日本帝國海軍は、その戦力差を強力な補助艦艇による雷撃と、 長航続距離と十分な雷撃ないしは爆撃能力を備えた陸上攻撃機による攻撃をもって漸減するという戦略のもと、駆逐艦の設計を行い続けた。 本艦型は本型の改設計型である夕雲型と合わせて「甲型駆逐艦」と呼ばれる、傑作艦隊型駆逐艦である。 前型である朝潮型は良好な武装を有していたものの、航続距離、それから速力については軍令部にとって不満の残る結果となった。 この頃対米関係が本格的に悪化し始め、軍令部は朝潮型の欠点を改善した新型駆逐艦の設計及び整備を要求した。 当初の要求は、特型駆逐艦並の船体に、速力36knot以上、航続性能18knotで5,000海里というものであった。 艦政本部はこの要求に対し、これをまともに呑むと排水量2,750ton、馬力60,000shp、全長120mを超えるものになると反発、 軍令部も、新型駆逐艦の主任務が夜間魚雷襲撃にあり、戦術上視認されやすい大型化を避けねばならなかったので、 船体の長さを抑えることを優先、次に航続距離を重視し、速力についての要求は35knotで妥協することとした。 武装は12.7cm連装砲3基6門、魚雷は最初から九三式酸素魚雷が採用され、4連装の発射管が2基、最大8射線を指向出来た。 速力向上の為より水流抵抗の低い船型を研究、特に艦尾の形状は特徴的で、艦尾底部の平坦化、水線部をナックルを付けたような形状に 仕上がり、同馬力でより高速航行が可能となった。これらは元々航行時に立てる白波を軽減する船体形状を研究していた際の成果から 転じたものと言われている。船型の改善により航続距離と速力の増大が期待された。 また、第四艦隊事件、友鶴事件の反動で寧ろ必要以上に頑強すぎたという反省を踏まえて、重量削減の為適度に軽量化の工夫を行なっている。 削れる箇所は削り、電気溶接も再び多用した設計となった。 これらの改善によって、朝潮型以上の設備を有しながら18knotで5,000海里の航続距離を達成した。しかし実際の公試において、速力は要求の 35knotを満たぬ34.6knotとなってしまった。これについては後で改良型のスクリューが考案され、それらの実験の結果35.4knotの速力を 得られたため、採用されて初期型は換装を受けている。 1937年の第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)によって18隻が計画され、15隻が竣工。3隻足りないのは大和型戦艦建造に際しての建造費秘匿の 為に巡潜乙型(伊15型)と共に架空計上されたものであり、実際は本来の計画通りである。後マル4計画で更に4隻、計19隻が建造された。